天上の愛

 死体だ。
 もはや物言わぬ、魂のぬけがら。腐りゆく肉の塊。用をなさぬもの。これまでの生で数限りなく目にし、少なくない数をこの手で作り出した、そう、死体。
 死体を目の前にしている。

(……何の死体だ?)

 目をすがめてその姿をあらためようとすると、長かったはずの髪は焼けていき、尖った歯は抜け落ち、まとった服は溶け出していった。男と思った途端、女になった。老婆と思えば少年になり、背中には羽根が生えた。羽根は黒く染まり、やがて積み木が崩れるようにばらばらになった。
 捉えられない。人の形をしているのは、確かなようだが。
 ジェイドはそのそばに屈み込み、今は平らな胸に手を伸ばした。ナイフが刺さっていたのだ。
 柄を握って引いてみると、すんなり抜くことができた。意味などない、ただナイフが刺さっていたから抜いてみた、それだけだった。
 だが、

「おい、お前!」

 背後から威圧的な声がジェイドを恫喝した。

「お前、王の側近でありながら、二度もかのお方を裏切るつもりか」
「無辜の民に手を出すとは」
「やはり我らとは相入れぬ一族よ。去れ。ここを去るのだ」

 糾弾する声は増えていき、ジェイドを四方から追い詰めるようにがなりたてる。

「俺は何もしていない。プラチナ様の傍を追われるようなことは、何も」

 声を張ったが、無駄だった。ジェイドを断罪せんとする者たちの声は増え続け、不協和音となり、周囲のすべての音をかき消して迫り来る。
 ジェイドは息を吸おうとし、先ほどからずっと吸い続けていたことに気付いて胸を押さえた。

「帰れ。去れ。一刻も早く」

 息ができない。

「もはやあの方の側にいることは許されない」

 息ができない。

「二度と会わぬと誓うのだ」

 息ができない。
 息ができない。
 息ができない。

「…………プラチナ様っ」


■■■


「ジェイド」

 青い瞳に見下ろされている。
 一瞬どこにいるのか分からなくて、ジェイドは瞬いた。すぐに現実がこの身に降りてきた。ここは王城だ。ここは自室の寝台の上。傍に立ち、こちらを覗きこんでいるのは、プラチナ。

「……なんで貴方が俺の部屋にいるんです」
「寝起きの一言がそれとは、ご挨拶だな。今何時だと思っている」
「ええと、日の出前?」
「阿呆、外を見ろ」

 開け放たれた窓からは、絹のカーテンを透かして陽光が注ぎ込んでいる。
 ジェイドは今日自分を待っていたはずの仕事の数々を完全に思い出した。
 慌てて身を起こそうとすると、プラチナに制止される。

「いい。たまには休め」
「そういう訳にも」
「仕事はベリルに割り振った」
「ベリルさんに? 大丈夫ですかね?」

 彼ではかえって安心できないというニュアンスをにじませると、プラチナは苦いものを噛んだような顔をした。

「あれでも有能なのは知ってるだろう。サボり癖があるだけだ」
「……はあ、書類を放り出して酒蔵に逃げ込んでなければいいんですけど」
「その可能性は、おおいにあるな……」

 ジェイドはあらためて傍らに立つプラチナを見上げた。常と変わらぬ、毅然と美しい立ち姿。奈落王の装い――略式だが――に身をつつみ、銀色の髪を結い上げ、細い面には静かなまなざし。かつて手折ろうとした若木。

「……いいから眠れ。宰相が目の下に隈を作っていては、下の者が萎縮するだろう。自分の働きが足りないのだと思って」
「実際、もうちょっとまじめに働いてほしいのもいますけどね」

 常のように軽口を叩いたつもりが、そこには感情が乗らなかった。

「うなされるのが怖いなら……次は、起こしてやる」
「……起こしてくださらなかったじゃないですか」
「今来たんだから仕方がないだろう」
「プラチナ様……少しだけ甘えていいですか」

 突然の言葉に彼はゆっくり瞬いたが、その瞳はすぐに受容を示した。
 ジェイドは遠慮がちに彼の腕を引き寄せ、その暖かさに安堵しながら思う。
 いつだってプラチナはジェイドの要求を拒まなかったと。
 継承戦争のころ――プラチナに跪きながら、その実、彼を「駒」として操ろうとしていたころ――
 己の目的のため、アプラサスの封印の祠に行くようけしかけたときもそうだ。
 祠へ向かわせる動機付けのため、我ながら無茶な論理を通そうとした。聡いプラチナは当然その矛盾や強引さに気づき指摘してきたが、結局は「ジェイドがそう望んでいる」ことだけを理由に、祠へ行くことを了承した。なにも追求せずに。
 そしてテラスに満月の明かりが投げかけられたあの夜、彼は自分のあたうかぎりジェイドを、ジェイドの罪を許した。

 いつも、いつでも、プラチナはジェイドの望みを叶えようとしていた。裏切られても、奪われても、憎んでも。
 そこには、そして裏切りの時を経た今ジェイドに差し伸べられるこの手には、プラチナが人ならぬ者である証があるように思う。すなわち、天上の――神の――。

「珍しいな」
「何がです」
「お前がこんな……明日は槍が降るか」
「降りませんよ。もう、二度としませんし」
「……何故だ」
「貴方の手が、体温がないと、眠れなくなる」
「じゃあ、一緒に寝ればいいだろう」

 当然の帰結と言わんばかりに、顔色ひとつ変えずに、プラチナはそう提案してくる。起こりうる可能性については欠片も頭にないのだ。子供だ。
 だが実際、ゼロに近い可能性だった。ジェイドにとってもまだ、せいぜい、この距離が精一杯だ。ためらいなく触れるにはプラチナの魂は美しすぎ、完璧すぎ、そして奇跡だった。

 堕ちて、泥水をすすり、屈辱に耐え、這い上がり、奇跡に出会い、そそのかし、操り、利用し、裏切り、捨て置き、憎まれ、赦された。

(すべてを失い、すべてを得た。これ以上何を望む)

「……傍にいてください」
「ああ」

 ジェイドにとっての「すべて」たる存在が微笑む。その類稀なる美しさが胸を貫く。
 彼が、この世にたったひとり誰も代わりのきかない彼が、隣にいる、そのことがこんなにも。

 この日から、奈落王は夜半になると自室を抜け出し、宰相の寝室に通うようになった。
 下世話な噂が乱れ飛んだが、朝の二人に放蕩の気配は微塵もなかった。
 二人は身を寄せ合って静かに寝息を立てるだけだったからだ。

 それ以降、ジェイドの悪夢は彼を見放している。